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第47話 戻ってはいけない橋

Author: なつめ
last update publish date: 2026-09-04 03:42:38

 三回目の着信をやり過ごしたあと、四回目のベルはきっかり四分後に鳴った。

 澪は朔たちが見守る中で受話器を取り、何度も「もしもし」と呼びかけたが、返ってきたのは遠くを流れる水音と、タイヤが濡れた路面を踏むようなかすかな摩擦音だけだった。

 三十秒ほどで通話は切れ、それ以降、二〇三号室の固定電話が鳴ることはなかった。

 指示どおり四回目へ出たことで何が変わったのかは分からないまま、六人は警察へ追加の記録を渡し、戻り橋へ向かう準備を整えた。

 午後十時を少し過ぎたころ、常世荘を出た二台の車は山間部へ向かって走り始めた。

 先頭を蓮司が運転し、助手席には悠斗、後部座席に美月が乗る。

 後ろの車は朔が運転し、澪と奈々香が同乗した。

 互いの位置情報は常時共有し、車間が開けばすぐ止まるよう取り決め、警察にも目的地と到着予定時刻を伝えている。

 戻り橋の正式名称は〈美影橋〉だった。

 県境に近い山間部を通る旧国道に架けられた、全長五十メートルにも満たない古いコンクリート橋で、十数年前に新しいバイパスが開通してから交通量は急速に減った。

 現在では沿道の商店もほとんど閉まり、夜間に通るのは地元住民か、道を間違えた車くらいだという。

 〈戻り橋〉は地図にも道路台帳にも載らない、土地の人間がいつからか使い始めた呼び名だった。

 車窓の外では、街灯が一つ減るたび闇が濃くなった。

 二〇三号室を出たときにはまだ住宅やコンビニの灯りが続いていたが、四十分ほど走ると家屋はまばらになり、やがて道路の両側を杉林だけが塞ぐようになった。

 奈々香は膝の上で両手を組み、窓へ自分の顔が映るたび視線を逸らしている。

 八年前の二〇三号室へ迷い込んだという感覚からまだ完全には戻れておらず、暗いガラスの向こうへ長い髪の女が映ることを恐れているようだった。

「戻り橋って、どういう話なの」

 奈々香が静かに訊いた。

 澪は事前に集めた記事を開こうとしたが、先頭車両にいる蓮司から通話が入り、車載スピーカーへ切り替える。

 蓮司は古い地域誌と新聞記事を照合した内容を、運転の邪魔にならない範囲で説明し始めた。

 昔、戻り橋のたもとには公衆電話が一台あった。

 深夜に橋周辺で事故死した者が、その電話から家族へ最後の電話をかけるという噂があり、受けた側が死を知らずに「帰っておいで」と答えると、その夜のうちに死者が家へ戻ってくる。

 ただし玄関へ立つものは、事故で死んだ本人ではない。

 声も顔も本人に似ているのに、家へ入れた瞬間から家族の誰かが一人ずつ消える、という形で語られていた。

「じゃあ、電話で『帰っておいで』って言っちゃ駄目なんだ」

 奈々香が言うと、蓮司は「現在残っている怪談ではな」と答えた。

 言葉の選び方が引っかかり、澪は前席の間から顔を上げる。

 蓮司はそこで、助手席の悠斗に新聞記事の画像をこちらへ送らせた。

 画面に表示されたのは十三年前の地方紙だった。

 見出しは、旧国道で起きた深夜の死亡事故を簡潔に伝えている。

 被害者は二十三歳の女性、園村香苗。

 澪はその名前を見た瞬間、常世荘の隠し部屋に貼られていた写真と、録画映像の中で押し入れを指した青白い女の顔を思い出した。

「最初に消えた人……」

「そうだ」

 蓮司の声がスピーカーから返る。

 常世荘二〇三号室から最初に正式な行方不明者として扱われた女性。

 その十三年前の失踪者こそ、園村香苗だった。

 記事によると、香苗は深夜の美影橋中央付近で乗用車にはねられた。

 運転手は急に人影が道路へ出てきたと証言しており、ブレーキ痕も残っていた。

 香苗は救急搬送されたものの間もなく死亡が確認され、警察は事故として処理している。

 所持品はほとんどなく、身元が判明するまで多少時間を要したという。

「常世荘から消えたあと、ここまで来てた」

 澪が言う。

「警察の古い記録では、行方不明届が出されたあとに事故死者との照合が進んで、香苗本人と確認されている」

「なのに常世荘では、ずっと『消えた女』として残ってたの?」

 奈々香が訊く。

「管理会社側の記録が更新されてなかった。そこから怪談だけが独立して残った可能性がある」

 蓮司の説明を聞きながら、澪は澄花の壁の文字を思い出していた。

 〈この人は常世荘で死んでいない。死んだ場所は別にある。人形はその場所から持ってこられた。〉

 澄花は八年前の時点で、常世荘の噂だけではなく、事故記録まで辿っていたことになる。

 美月が通話越しに「死亡推定時刻は?」と尋ねた。

 蓮司は記事の続きへ目を通し、午前零時四十四分前後と答える。

 救急隊の到着時刻、医療機関へ搬送された時刻、医師の所見から推定されたもので、大きな幅はなかったらしい。

「問題はそのあとだ」

 蓮司の声がさらに低くなった。

 事故の十五分後、午前零時五十九分。

 香苗の母親が暮らしていた自宅へ、公衆電話から一本の着信が入っている。

 警察がこの通話を把握したのは、母親が事故後の事情聴取で話したからだった。

 当時、携帯電話を持っていなかった香苗は、外出先から家へ連絡するとき公衆電話を使うことがあり、母親は電話へ出た瞬間から娘の声だと思ったという。

 雑音が多く、遠くで車の音も聞こえていたが、声そのものには不自然なところがなかった。

「何て言ったの」

 奈々香が訊く。

 蓮司は一度黙った。

「『お母さん、帰っていい?』」

 車内の空気が変わった。

 朔の手はハンドルから離れないが、視線がわずかに鋭くなる。

 澪は胸元に置いた鞄の中に、祭壇から現れた黒い受話器が証拠袋へ入っていることを意識した。

「母親は事故を知らなかった」

 蓮司は続ける。

「だから普通に、『帰っておいで』と答えた」

 通話はそれだけだった。

 香苗は「うん」と返したあと電話を切り、母親は娘が夜遅く帰宅すると思って先に寝た。

 しかし翌朝になっても本人はいなかった。

 代わりに玄関の外へ、香苗が失踪時に履いていた靴が左右きれいに揃えて置かれていた。

 澪は無意識に自分の足元を見た。

 常世荘の隠し部屋に保管されていた女性たちの靴、押し入れから枕元へ続いていた裸足の濡れ跡、録画の中だけへ姿を見せた園村香苗。

 別々に見えていたものが、少しずつ同じ女性へ集まっていく。

「靴は警察が確認してるの?」

 朔が初めて口を挟んだ。

「記事だけでは分からない。蓮司?」

「補足資料には、母親が警察へ提出したとある。香苗本人のものと判断されたらしい」

「誰かが事故後に持っていった可能性はある」

「俺もそう考えてる」

 蓮司は怪談そのものを肯定しなかった。

 香苗の死亡時刻を知る人物が母親へ電話し、本人の声を真似て帰宅を予告し、常世荘に残された靴を自宅玄関へ運んだなら、一連の出来事を人間の手で作ることはできる。

 現在のような高度な音声合成がなくても、声質の似た人間が短い言葉だけ喋り、雑音を混ぜれば母親を騙せた可能性はある。

「でも十三年前に、そこまでする理由は?」

 澪が訊く。

「そこが分からない」

 蓮司の返答は短かった。

 常世荘で女性を盗撮していた最初の男は、香苗が失踪した時期にはまだ壁の中へ出入りしていた可能性がある。

 彼が香苗を橋まで追ったのか、事故を目撃したのか、あるいは死後の電話と靴だけを演出したのか。

 男自身がその後失踪しているため、今となっては確かめる手段がほとんど残っていなかった。

 奈々香は記事を読み返しながら、しばらく黙っていた。

 やがて小さな声で「電話の怪談が先じゃないんだ」と言う。

 澪も同じところで考えが止まっていた。

 戻り橋の噂は、事故より前から存在していたわけではない。

 確認できる範囲で最古の記録は園村香苗の死後だった。

 最初に一人の女性が橋で死に、母親へ不可解な電話がかかり、玄関へ靴が置かれた。

 その実際の事件へ、「帰っておいでと言うと死者が戻る」「戻ってくるものは本人ではない」という部分が後から重ねられていった。

「七刻女学校と同じ」

 奈々香が言う。

「最初に本当に何かあって、そのあとに話が増えてる」

「常世荘もそうだった」

 美月の声が通話越しに続く。

 女性の失踪という現実の事件があり、その上へ壁の女や動く人形の噂が積み重なった。

 実際には管理人の息子による盗撮と侵入があり、その一方で人間だけでは説明できない記録も残っている。

 朔は信号のない山道を曲がりながら、前方の蓮司の車を見失わないよう速度を落とした。

「誰かが実際の事件を材料にして、後から怪談を作った可能性がある」

「十三年前から?」

「今の犯人と同じ人間とは言ってない」

 朔は淡々と答える。

「最初の事件を作った人間が別にいて、後からその記録を見つけた誰かが形式だけ利用した可能性もある。七刻女学校の仕掛けと、常世荘の古い犯罪が別だったのと同じだ」

 その考え方なら、現在の一連の仕掛けを動かしている人物が十三年前の事件に直接関与していなくても成立する。

 古い事故、古い怪談、盗撮記録、失踪者の荷物。

 誰かは残されたものを集め、再利用し、澪たちが知っている「七つの呪地」という形へ組み直している。

 だが、その誰かがなぜ八年前から澄花と七人を撮影していたのかという疑問だけは、少しも薄くならなかった。

 午後十一時を過ぎると、先頭車両のナビが旧国道への分岐を示した。

 バイパスから外れた瞬間、道路幅は狭くなり、舗装のひび割れが車体へ細かな振動を伝える。

 街灯は数百メートルおきに一本ある程度で、その多くが消えていた。

 ガードレールの外側には深い谷が続き、窓を閉めていても川の流れる低い音が聞こえる。

 奈々香はスマートフォンの時刻を見た。

「十一時十八分」

「予定より少し早い」

 朔は前の車のブレーキランプを追いながら答える。

 午前零時の指定まで四十分ほどあり、現地を調べる時間は取れる。

 警察には橋の手前で一度連絡を入れる約束になっていたため、蓮司の車が路肩へ寄り、二台とも短く停車した。

 現在地を共有したあと、六人は再び出発した。

 旧国道へ入ってから対向車は一台もなく、後続車も現れない。

 道路脇には落ち葉が積もり、長く車が通っていない区間では中央線の上まで苔が広がっていた。

 午後十一時二十六分。

 前方の闇に、短い橋が浮かんだ。

 美影橋。

 白いコンクリート製の欄干は黒ずみ、ところどころ苔に覆われている。

 橋の向こう側には旧道が続いているが、その先は木々の影へ溶けて見えない。

 蓮司の車が橋の手前で停まり、朔も十分な距離を空けて後ろへ止めた。

 六人は一度周囲を確認してから車を降りた。

 山の夜気は常世荘より明らかに冷たく、澪が息を吐くとわずかに白くなる。

 川の音は橋の下から絶えず響き、風が木々を揺らすたび、濡れた葉同士が擦れる音がした。

 人工的な音がほとんどないせいで、車のドアを閉める音さえ遠くまで響いた。

「橋のたもと」

 悠斗の声が止まった。

 全員が同じ方向を見る。

 そこに電話ボックスが立っていた。

 古い透明ガラスの四角い箱。

 上部には色褪せた公衆電話の表示が残り、内部には黒い電話機が一台設置されている。

 周囲の草は膝ほどまで伸びているのに、ボックスの扉の前だけ地面が黒く露出していた。

「撤去済みじゃなかったの」

 奈々香が掠れた声で訊く。

「記録上は二十年以上前に撤去されてる」

 悠斗はスマートフォンへ保存した設備台帳と、目の前の電話ボックスを見比べた。

 設置位置までほぼ一致している。

 柱、基礎、道路からの距離。

 誰かが後から同じ場所へ似たものを再設置した可能性はあるが、少なくとも行政記録には存在しない設備だった。

 蓮司は誰も先に触らないよう手で制し、ボックスの周囲を一周した。

 電源線らしいものは地中へ伸びているが、電話回線の接続状況は外からでは分からない。

 朔はカメラを向け、ガラス越しに内部を撮影する。

 黒い公衆電話。

 硬貨投入口。

 金属製の番号盤。

 コード。

 ただし。

 受話器だけがなかった。

 コードの先端は引きちぎられ、黒い被覆が古く硬化している。

 蓮司が証拠袋を開き、常世荘の祭壇へ残されていた受話器をガラス越しに並べた。

 形。

 大きさ。

 接続部。

 摩耗した傷の位置。

 ぴたりと一致した。

 澪は受話器と、受話器を失った公衆電話を交互に見つめた。

 十三年前に戻り橋から消え、常世荘の壁の奥へ現れたはずの部品が、ようやく元の電話機と向かい合っている。

 その瞬間、受話器のない公衆電話から呼び出し音が鳴った。

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