LOGIN三回目の着信をやり過ごしたあと、四回目のベルはきっかり四分後に鳴った。
澪は朔たちが見守る中で受話器を取り、何度も「もしもし」と呼びかけたが、返ってきたのは遠くを流れる水音と、タイヤが濡れた路面を踏むようなかすかな摩擦音だけだった。
三十秒ほどで通話は切れ、それ以降、二〇三号室の固定電話が鳴ることはなかった。
指示どおり四回目へ出たことで何が変わったのかは分からないまま、六人は警察へ追加の記録を渡し、戻り橋へ向かう準備を整えた。
午後十時を少し過ぎたころ、常世荘を出た二台の車は山間部へ向かって走り始めた。
先頭を蓮司が運転し、助手席には悠斗、後部座席に美月が乗る。
後ろの車は朔が運転し、澪と奈々香が同乗した。
互いの位置情報は常時共有し、車間が開けばすぐ止まるよう取り決め、警察にも目的地と到着予定時刻を伝えている。
戻り橋の正式名称は〈美影橋〉だった。
県境に近い山間部を通る旧国道に架けられた、全長五十メートルにも満たない古いコンクリート橋で、十数年前に新しいバイパスが開通してから交通量は急速に減った。
現在では沿道の商店もほとんど閉まり、夜間に通るのは地元住民か、道を間違えた車くらいだという。
〈戻り橋〉は地図にも道路台帳にも載らない、土地の人間がいつからか使い始めた呼び名だった。
車窓の外では、街灯が一つ減るたび闇が濃くなった。
二〇三号室を出たときにはまだ住宅やコンビニの灯りが続いていたが、四十分ほど走ると家屋はまばらになり、やがて道路の両側を杉林だけが塞ぐようになった。
奈々香は膝の上で両手を組み、窓へ自分の顔が映るたび視線を逸らしている。
八年前の二〇三号室へ迷い込んだという感覚からまだ完全には戻れておらず、暗いガラスの向こうへ長い髪の女が映ることを恐れているようだった。
「戻り橋って、どういう話なの」
奈々香が静かに訊いた。
澪は事前に集めた記事を開こうとしたが、先頭車両にいる蓮司から通話が入り、車載スピーカーへ切り替える。
蓮司は古い地域誌と新聞記事を照合した内容を、運転の邪魔にならない範囲で説明し始めた。
昔、戻り橋のたもとには公衆電話が一台あった。
深夜に橋周辺で事故死した者が、その電話から家族へ最後の電話をかけるという噂があり、受けた側が死を知らずに「帰っておいで」と答えると、その夜のうちに死者が家へ戻ってくる。
ただし玄関へ立つものは、事故で死んだ本人ではない。
声も顔も本人に似ているのに、家へ入れた瞬間から家族の誰かが一人ずつ消える、という形で語られていた。
「じゃあ、電話で『帰っておいで』って言っちゃ駄目なんだ」
奈々香が言うと、蓮司は「現在残っている怪談ではな」と答えた。
言葉の選び方が引っかかり、澪は前席の間から顔を上げる。
蓮司はそこで、助手席の悠斗に新聞記事の画像をこちらへ送らせた。
画面に表示されたのは十三年前の地方紙だった。
見出しは、旧国道で起きた深夜の死亡事故を簡潔に伝えている。
被害者は二十三歳の女性、園村香苗。
澪はその名前を見た瞬間、常世荘の隠し部屋に貼られていた写真と、録画映像の中で押し入れを指した青白い女の顔を思い出した。
「最初に消えた人……」
「そうだ」
蓮司の声がスピーカーから返る。
常世荘二〇三号室から最初に正式な行方不明者として扱われた女性。
その十三年前の失踪者こそ、園村香苗だった。
記事によると、香苗は深夜の美影橋中央付近で乗用車にはねられた。
運転手は急に人影が道路へ出てきたと証言しており、ブレーキ痕も残っていた。
香苗は救急搬送されたものの間もなく死亡が確認され、警察は事故として処理している。
所持品はほとんどなく、身元が判明するまで多少時間を要したという。
「常世荘から消えたあと、ここまで来てた」
澪が言う。
「警察の古い記録では、行方不明届が出されたあとに事故死者との照合が進んで、香苗本人と確認されている」
「なのに常世荘では、ずっと『消えた女』として残ってたの?」
奈々香が訊く。
「管理会社側の記録が更新されてなかった。そこから怪談だけが独立して残った可能性がある」
蓮司の説明を聞きながら、澪は澄花の壁の文字を思い出していた。
〈この人は常世荘で死んでいない。死んだ場所は別にある。人形はその場所から持ってこられた。〉
澄花は八年前の時点で、常世荘の噂だけではなく、事故記録まで辿っていたことになる。
美月が通話越しに「死亡推定時刻は?」と尋ねた。
蓮司は記事の続きへ目を通し、午前零時四十四分前後と答える。
救急隊の到着時刻、医療機関へ搬送された時刻、医師の所見から推定されたもので、大きな幅はなかったらしい。
「問題はそのあとだ」
蓮司の声がさらに低くなった。
事故の十五分後、午前零時五十九分。
香苗の母親が暮らしていた自宅へ、公衆電話から一本の着信が入っている。
警察がこの通話を把握したのは、母親が事故後の事情聴取で話したからだった。
当時、携帯電話を持っていなかった香苗は、外出先から家へ連絡するとき公衆電話を使うことがあり、母親は電話へ出た瞬間から娘の声だと思ったという。
雑音が多く、遠くで車の音も聞こえていたが、声そのものには不自然なところがなかった。
「何て言ったの」
奈々香が訊く。
蓮司は一度黙った。
「『お母さん、帰っていい?』」
車内の空気が変わった。
朔の手はハンドルから離れないが、視線がわずかに鋭くなる。
澪は胸元に置いた鞄の中に、祭壇から現れた黒い受話器が証拠袋へ入っていることを意識した。
「母親は事故を知らなかった」
蓮司は続ける。
「だから普通に、『帰っておいで』と答えた」
通話はそれだけだった。
香苗は「うん」と返したあと電話を切り、母親は娘が夜遅く帰宅すると思って先に寝た。
しかし翌朝になっても本人はいなかった。
代わりに玄関の外へ、香苗が失踪時に履いていた靴が左右きれいに揃えて置かれていた。
澪は無意識に自分の足元を見た。
常世荘の隠し部屋に保管されていた女性たちの靴、押し入れから枕元へ続いていた裸足の濡れ跡、録画の中だけへ姿を見せた園村香苗。
別々に見えていたものが、少しずつ同じ女性へ集まっていく。
「靴は警察が確認してるの?」
朔が初めて口を挟んだ。
「記事だけでは分からない。蓮司?」
「補足資料には、母親が警察へ提出したとある。香苗本人のものと判断されたらしい」
「誰かが事故後に持っていった可能性はある」
「俺もそう考えてる」
蓮司は怪談そのものを肯定しなかった。
香苗の死亡時刻を知る人物が母親へ電話し、本人の声を真似て帰宅を予告し、常世荘に残された靴を自宅玄関へ運んだなら、一連の出来事を人間の手で作ることはできる。
現在のような高度な音声合成がなくても、声質の似た人間が短い言葉だけ喋り、雑音を混ぜれば母親を騙せた可能性はある。
「でも十三年前に、そこまでする理由は?」
澪が訊く。
「そこが分からない」
蓮司の返答は短かった。
常世荘で女性を盗撮していた最初の男は、香苗が失踪した時期にはまだ壁の中へ出入りしていた可能性がある。
彼が香苗を橋まで追ったのか、事故を目撃したのか、あるいは死後の電話と靴だけを演出したのか。
男自身がその後失踪しているため、今となっては確かめる手段がほとんど残っていなかった。
奈々香は記事を読み返しながら、しばらく黙っていた。
やがて小さな声で「電話の怪談が先じゃないんだ」と言う。
澪も同じところで考えが止まっていた。
戻り橋の噂は、事故より前から存在していたわけではない。
確認できる範囲で最古の記録は園村香苗の死後だった。
最初に一人の女性が橋で死に、母親へ不可解な電話がかかり、玄関へ靴が置かれた。
その実際の事件へ、「帰っておいでと言うと死者が戻る」「戻ってくるものは本人ではない」という部分が後から重ねられていった。
「七刻女学校と同じ」
奈々香が言う。
「最初に本当に何かあって、そのあとに話が増えてる」
「常世荘もそうだった」
美月の声が通話越しに続く。
女性の失踪という現実の事件があり、その上へ壁の女や動く人形の噂が積み重なった。
実際には管理人の息子による盗撮と侵入があり、その一方で人間だけでは説明できない記録も残っている。
朔は信号のない山道を曲がりながら、前方の蓮司の車を見失わないよう速度を落とした。
「誰かが実際の事件を材料にして、後から怪談を作った可能性がある」
「十三年前から?」
「今の犯人と同じ人間とは言ってない」
朔は淡々と答える。
「最初の事件を作った人間が別にいて、後からその記録を見つけた誰かが形式だけ利用した可能性もある。七刻女学校の仕掛けと、常世荘の古い犯罪が別だったのと同じだ」
その考え方なら、現在の一連の仕掛けを動かしている人物が十三年前の事件に直接関与していなくても成立する。
古い事故、古い怪談、盗撮記録、失踪者の荷物。
誰かは残されたものを集め、再利用し、澪たちが知っている「七つの呪地」という形へ組み直している。
だが、その誰かがなぜ八年前から澄花と七人を撮影していたのかという疑問だけは、少しも薄くならなかった。
午後十一時を過ぎると、先頭車両のナビが旧国道への分岐を示した。
バイパスから外れた瞬間、道路幅は狭くなり、舗装のひび割れが車体へ細かな振動を伝える。
街灯は数百メートルおきに一本ある程度で、その多くが消えていた。
ガードレールの外側には深い谷が続き、窓を閉めていても川の流れる低い音が聞こえる。
奈々香はスマートフォンの時刻を見た。
「十一時十八分」
「予定より少し早い」
朔は前の車のブレーキランプを追いながら答える。
午前零時の指定まで四十分ほどあり、現地を調べる時間は取れる。
警察には橋の手前で一度連絡を入れる約束になっていたため、蓮司の車が路肩へ寄り、二台とも短く停車した。
現在地を共有したあと、六人は再び出発した。
旧国道へ入ってから対向車は一台もなく、後続車も現れない。
道路脇には落ち葉が積もり、長く車が通っていない区間では中央線の上まで苔が広がっていた。
午後十一時二十六分。
前方の闇に、短い橋が浮かんだ。
美影橋。
白いコンクリート製の欄干は黒ずみ、ところどころ苔に覆われている。
橋の向こう側には旧道が続いているが、その先は木々の影へ溶けて見えない。
蓮司の車が橋の手前で停まり、朔も十分な距離を空けて後ろへ止めた。
六人は一度周囲を確認してから車を降りた。
山の夜気は常世荘より明らかに冷たく、澪が息を吐くとわずかに白くなる。
川の音は橋の下から絶えず響き、風が木々を揺らすたび、濡れた葉同士が擦れる音がした。
人工的な音がほとんどないせいで、車のドアを閉める音さえ遠くまで響いた。
「橋のたもと」
悠斗の声が止まった。
全員が同じ方向を見る。
そこに電話ボックスが立っていた。
古い透明ガラスの四角い箱。
上部には色褪せた公衆電話の表示が残り、内部には黒い電話機が一台設置されている。
周囲の草は膝ほどまで伸びているのに、ボックスの扉の前だけ地面が黒く露出していた。
「撤去済みじゃなかったの」
奈々香が掠れた声で訊く。
「記録上は二十年以上前に撤去されてる」
悠斗はスマートフォンへ保存した設備台帳と、目の前の電話ボックスを見比べた。
設置位置までほぼ一致している。
柱、基礎、道路からの距離。
誰かが後から同じ場所へ似たものを再設置した可能性はあるが、少なくとも行政記録には存在しない設備だった。
蓮司は誰も先に触らないよう手で制し、ボックスの周囲を一周した。
電源線らしいものは地中へ伸びているが、電話回線の接続状況は外からでは分からない。
朔はカメラを向け、ガラス越しに内部を撮影する。
黒い公衆電話。
硬貨投入口。
金属製の番号盤。
コード。
ただし。
受話器だけがなかった。
コードの先端は引きちぎられ、黒い被覆が古く硬化している。
蓮司が証拠袋を開き、常世荘の祭壇へ残されていた受話器をガラス越しに並べた。
形。
大きさ。
接続部。
摩耗した傷の位置。
ぴたりと一致した。
澪は受話器と、受話器を失った公衆電話を交互に見つめた。
十三年前に戻り橋から消え、常世荘の壁の奥へ現れたはずの部品が、ようやく元の電話機と向かい合っている。
その瞬間、受話器のない公衆電話から呼び出し音が鳴った。
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の